Voice from my guts

本当に望んでいることが、自分の生活や、取り巻く人間関係を形成していくんだなあと実感している今日このごろ。ただし、「本当の望み」は自覚がないことも多い。本当の望みは心や身体が知っていて、頭の理想とはズレていたりもして、そうなると悲劇というか喜劇というか

放っといてもやってしまうこと、反射的にとってしまう言動が、「本当の望み」のヒントなんであろうと思う。「本当の望み」が「これしたい」という形をとるとは限らず、むしろ「これしたくない」として現れることも珍しくない。怖いから、気が進まないから、避けたり後回しにすることも”望み”

だから口ではどんなに輝かしいことを目指していても、いざ機会が巡ってくると、不機嫌になったり無口になったり言い訳を探したり硬直したり。傍から見たら「いやそっちが本心やん」と思ったであろうな……と過去の自分を振り返って穴に入りたい気持ち

でもその「やりたくない」を認めることも難しいんだよなあ。それを認めたら、やりたくなくてもやることでしか到達できない果実を諦めざるを得ず、それは惜しいという、人間らしい愚かさ。ゴロゴロしてたい(身体は使いたくない)けど体型が崩れるのはイヤ、的な

ゴロゴロしてたい気持ちを認めた上で、身体使いたくないのと体型崩したくないのとどっちが強いか自分の胸に聞いて、強い方を残して諦める方は捨てるか、どっちも捨てられなければ両立させる第三の道を必死で見つけるか。必死で見つける努力を惜しんで、延々ブツブツ言い続ける、という道もある

ブツブツ言い続けるのを進んで(というのも変な表現だが)選んでればいいのだが、その点について自覚がないと、自分が頭で理想と描いてる行動をストレートに体現する人が身近に寄ってきたとき、屈折した態度をとってしまう危険があるんだよな(自戒)。卑屈になったり褒めすぎたり無視したり

そういうときの自分は結果的に「本当の望み=現実を直視したくない」という言動になっている。理想はもちろん違うんだけど、「現実=身体を動かしたくないのに体型を崩したくないなんて矛盾したことを望む自分」が許せないと、現実を直視したことにならない。そこを拒否する限り次へ進めない

だから、現時点での自分の「本当の望み」を知るには、下手に心や頭に問いかけるより、自分の言動を観察する方が有効かもしれんよなと思ったのだった。言葉はいろいろ脚色できても、とっさの行動はなかなか制御できないんだよね。まあ、堂に入ると、そう単純にも言えなくなってくるんだけど

愚かなことを望むしょーもなさよりも、愚かなことを望む自分なんて!と美意識を高く持つことが、結果的に自分を損ないかねないという皮肉。まあ、美意識の高さが自分を律することももちろんあるけど、それはちゃんと「そうありたい」と望んでないと、最悪の場合病んだりもする危険を孕むのだ

でもいまだからこんなことがつらつら書けるけど、これは「現実を直視するとはどういうことか」一度身をもって知った経験がないと、いくら言われたところでピンと来ないのよね。だから数年前の自分にいくらこんこんと説いたところで無駄、というのも事実。自分で気づかないとものにならない

今後もいろんな要因で簡単に忘れるかもしれないから、現時点でこんなことも考えておったのだ、ということを記しておくことにする。自分を大事にする、自分を尊重するってシビアなことやよなと思う。まして、自分の大事な人を大事にするなんて、よほど気合が入ってないとすぐ疎かになりがち

言葉よりも行動の方がモノを言うよなあ、という話でした