先日、旧友と話をしていて、ショックを与えてしまったことがあった。
以下、生物の死に関わる記述が出てくるので、ぐったり疲れていたり、精神的に参っている方は読み進めるのを注意されたい。私の旧友は、考え方が成熟していて、付き合いが古いだけでなく私のことをよく知っているので、受けたショックに引きずられることはなかったが、文章だけからだと私に強い幻滅を感じる恐れもあるので、予めお断りしておく。
詳しい経緯は割愛するが、生き物の命への接し方について話しているときに、私の傾向というのか、行動パターンについて何気なく説明した。それは「ペットショップやホームセンターのアクアリウムのコーナーへ行くと、水槽の中でついつい死にかけた個体を探してしまう」というものである。しかもそれを見つけたとき、私はどちらかというと「お宝を見つけた」ような興奮を覚えている。この行動については長らく無自覚で、連れ合いに指摘されて初めて気がついたのだが、旧友は少なからぬショックを受けていた。
彼女はそういう個体を見つけてしまうと憐憫の情が強く起こり、助けたいがどうにもできない状況に耐えがたい気持ちになるという。そういう状況に対して興奮する(もっと強くいうと面白がる)人間が、古くから知っているはずのこんなに近い場所にいたということが、ダブルで衝撃だったのらしかった。
一応断っておくと、私は生き物の死を何でもかんでも面白がるわけではない。長く飼っていたペットや近親者の死はこたえるし、小動物を快楽目的で殺す欲求もない。轢死した動物を見ると、心が痛むし人間の所業を詫びたい気持ちになる。
ただ、魚を捌くのはわりと好きである。また学生時代、部活の練習場に横たわっていた鳩の死骸(前日の台風でやられたらしい)を躊躇なく捨てたこともある。平然とそう話す私に、旧友は若干引いていた。彼女はそういう状況に遭遇すると、何とか乗り切るためにかなり努力して心を無にするのだそうだ。今回お互いの違いをはっきり知ったので、今後もしそういう状況に居合わせたら、私が率先して対処したい。
そんな話を連れ合いにしていると、「(お前の態度は)理系っぽいよな」というコメントが出た。奇しくも私も、そんなようなことを考えていたのだった。魚を捌くときは「体の構造が面白い」という気持ちが大きいし、水槽の弱った個体に興味津々なのも、元気に生きているものといよいよ死なんとするものの残酷な対比が、命とは何なのかを考えさせるからなのかもしれない、そんな高尚なことを考えたことは一度もないが。台風にやられた鳩に至っては、周辺に散らばる楠の落葉と同じ扱いであった。
理系と文系の違いは何だろうか、というのをしばらく前に考えていたのだけど、対象と自分自身との関係性や距離の取り方かもしれないな、と思った。理系は自分とは関係ないものとして対象を切り離し、物質や概念として扱う。文系は対象の中に自分を置き、その影響や文脈、関係性を考える。日本と西洋社会では同じ学究分野でもまた姿勢が違うかもしれないけど(そもそも理系/文系という分類が日本にしかないけども)、根底にそういう態度があるような気がする。
……というようなことを考えている矢先、断文中のこの頃でも抵抗なく読んでいるブログの中のとある記事に、それに通じるような記述を見つけて、とても嬉しく思ったのだった。自分は冷たいのかも……と不安になるときは、「理系的な姿勢を取ろうとしている」と言い換えると、別に可もなく不可もなく、ただそういうタイプなんだと少し心が落ち着くかもしれない。