先日の記事を書いたあと、さらに考えたことを補足。
向けられた言葉が結果的に呪いになったとして、でもそれに縛られたおかげで人生のある時期、膝が折れずにすむということもある。呪いの拘束力で自分を奮い立たせ、それがなかったら到達できなかった地点に気が付いたら立っていた、ということさえあるだろう。最初のうちはむしろ自分を乗りこなす手綱だと感じていたのに、ある時期を過ぎて力のバランスが崩れ、いつの間にか呪いに転じていた、という場合だって少なくあるまい。
だからまあ、予防するにはどうしたって限界があり、呪いすなわち100パー黒、というわけでもないのだろうと思う。人間万事塞翁が馬、である。私はこの故事を、「福が禍にも、禍が福にもなりうる」というより、「何が福になり、何が禍になるか、人間風情に分かるものじゃない」と解釈して、そこがとても気に入っている。もちろん、いつそうなるか、というのも分かるまい。
やっぱりできることは、どうなるか分からないのだと肝に命じること、事に誠心誠意当たること、事が起こっても回復する力を養うこと、だと思う。そしてそれは呪いに限った話でもないのではないか。
まあ、予防に腐心するのも人生の姿勢のひとつであるし、それにどうこういうつもりはない。人を予防に走らせるほど、不安や怯えが根深く手強いものだということも理解できる。私は自分がどうするか、そのことだけしか、決めることはできないのだ。