We are all similar

感情というものについて、正解があると信じて、その正解を探したり、必死で認定を得ようとしたりしていたのだな……!(目の覚めるような気持ち)

分析しよう

正解というか、公式といった方が近いかもしれない。Official じゃなくて Formula の方。Aという入力があったら、Bという感情を抱くのが正当、みたいな。「まともな人間であれば、ある状況に対してはこう感じる」という反応が、だいたい共通して存在するんだと無自覚に信じていた。火にかけられた鍋を素手で触ったら熱い、みたいなのが、感情に関しても当てはまると思っていた。

大切にされたら嬉しいとか、無視されたら辛いとか、共通する反応のパターンみたいなのは確かにあるけど(だから文学や演劇が成立するんだと思うんだけど)(そしてそういう共通するパターンが強力だから、それが全部に当てはまると思うのかもしれない)、日常の具体的な状況で起こる反応は本来、十人十色なんだよな。書いてることが当たり前すぎて自分でも何言ってるんだって感じですけど。

何が問題なのか

でも、自分の感情に自信が持てないと – 自信という言葉は紛らわしくてできれば避けたいんだけど、「そんなふうな感情(とくにネガティブなやつ)を抱いても、別に異常でも間違いでもなんでもない」と思えること、と定義したい – まず最初の現象として、A に対して B(ネガティブ)と思うのは自分の心が狭いから?とか、そんな風に感じる自分は間違ってる?とか、自分に対する猜疑心が止まらなくなる。

でも B は消せない。だから何度も反芻して、自分が感じているのが本当に B なのか確認しようとしたりする。あらためて書くと不毛の極み!だが当の本人(私)はいたって真剣なのだ。かくして同じことをぐるぐる何度も考える、という、消耗の時間が訪れる。

考えに考え尽くして「やっぱり B が否定できない、でもそう思うのが正しいか自信が持てない」となると、身近な信頼できる人に、「B で正しいよ」ということを保証してもらおうとするのだ。がーーーーん。そんなことをやってたのか私。

相手が無理なく、「A に対しては B になるよね」となる場合は問題ない。しかし、そうじゃない場合があるのだ、反応は十人十色だから。そのとき私は二重にショックを受けるのだ。「同意が得られなかった」ことを、「自分の B という反応が間違いと判定された」「なんなら否定・拒絶された」と飛躍して受け取ってしまう。そして落ち込む。心を閉ざす。心当たりがありすぎる……。

抜け出す道

別に、どんな入力に対してどんなネガティブなことを感じようが、私の感情なんだから私の好きにすればいいのである。なんという自明の理。だがそれができない間、できない当人に口を酸っぱくして説いても無駄なのだ。自転車に乗れない間、どんなに乗り方を説明しても無駄なように。

だが、私は気づいて愕然としたのだが、ネガティブなことを感じるのは自分のパターンであって、A のせいではないのだ。A に対して感じることは(ネガティブな)B とは限らず、C かもしれないし D でもあり E でもあり得る。ポジティブかもしれないしフラットかもしれないし、インスパイアでさえあるかもしれない。誰も B だとは保証できない。ただし、C にも D にも E にも、私がそう感じねばならない義務もない。

A のせいじゃないから、A を正そうとしても意味がない。でもこれ A のせいに見える(というか A のせいにしか見えない)んだよね〜。自分が A に B という形で反応する抗体を持っているだけである。スギ花粉に反応する花粉症と同じ。スギ花粉は自分にとって影響を及ぼすのは間違いないが、スギ花粉が間違ってるとか言っても埒があかない。文句を言うより、どうやって避けるか、発症したらどう対処するか考えるのが妥当だし現実的である。スギ花粉ならそう思えるのに、相手が人間だと途端に難しくなるのはこれいかに?

A に対して B と思うのは私だけかもしれないけど、私がそう思うんだから、それはもうそれだけでいいんじゃないか。私は自分の感情を引き受けるのが怖かったのかもしれないな。B を感じるのは人間として当然の摂理で、だから私個人に責任はない、と思いたかったのかもしれない。自力で対処する必要はない(仕方がないことだからブツブツ文句言ってればいい)と思いたかったのかもしれない。自分だけが B と思うのかもしれない、ということが、どうしてあんなに罪なことに思えたのか、不思議な気持ちすらする。

あの人も私も似た者同士

自分にとってアレルギー性の強い言動を繰り出してくる人、というのはやっぱりいる。そういうとき相手の人間性や価値観をこき下ろしたくなるけど、それは実はトンチンカンだったんだな。その人のことをイヤと思っても別にいい。でもそれを態度に出したり、攻撃したりするのは違うのだ。相手の言動が実害を伴ってたら、冷静に改善を申し出る必要はあるけど、相手をけなしたり馬鹿にして当然と思うのはヤバい。私ったらやりがちですけど。

アレルギー反応が強く出るときは、相手との距離が近づきすぎてるというのは言えると思う。だから離れるのが一番効果がある。好きじゃなくても、適度に離れていられれば、必要に応じて親切にはできる。ベタベタするのが仲が良いわけじゃないし、仲が良く見えるのがうまくいってるわけでもないのだ。

なんだか、長いこと他者を、モノトーンというか一枚岩で見ていた気がする。でも本当は複雑で細かいパズルをやりとりするような、あちこち凸凹で、ここはスムーズだけどここは対処が必要、という、めちゃ活性の高いものなんじゃないか、ある程度親しくなった人間関係というのは。(四十路も半ばになって何を言ってんだ私は)

細かいパズルのハマり具合だけが全体の相性を象徴するもんじゃないんだね。


というようなことを、近親とのやりとりを思い出して反省するなど。