I was not the exception

メンタルのヘルスがあーあ、だった時期、スピリチュアル界隈や自称カウンセラーの文章を探してWEBを彷徨っていたことがある。そこでは「怒りを手放しましょう」的なメッセージが至るところで発信されていて(他にも何種類かそういう言説はあった)、WEBを歩けばこれに出くわす印象だった。

※ その時期めちゃくちゃ助けられたし、界隈にはもちろん誠実な人もいるはずだけど、私はスピリチュアルな事象はわりと信じるがそれで救って差し上げますと言われると腰が引けるたちで(ザ・めんどくさい)、カウンセラーには想像を絶する訓練とそれを裏付けする公的資格が必要だと思っているので、物言う角度が通常よりさらにナナメっております

で、私はそれを読むたびに、「また出たよ」と思っていたのだ。猫も杓子も、という気持ちもあっただろうし、何より「怒り怒りっていうけど私はもうそんな幼稚なフェーズはとっくの昔に通り越してるんで ( ̄‥ ̄)≡3」みたいにふんぞり返っていたのである……自覚なかったけど。自覚ないからタチが悪い。

だけど何年もかけて螺旋階段を登るように自分のお手入れを続けていたら、デトックスノートを走る万年筆のペン先から「あれ?これ私もしかして怒ってる?(しかもかなり?)」という言葉が出てきたのだ。

∑( д) ゚ ゚

想像していただけますかそのときの私の衝撃を……

私は会社員時代、理不尽な展開に大人しく従う方ではなかったし、本を読んだりニュースを読んだりしたときに義憤で目の前が真っ白になる(いま考えればこれだいぶ過剰な気がしますな)こともしょっちゅうあったから、自分は怒るときは怒るけど、ちゃんと把握できてるし対処できるし、押さえ込んだり振り回されたりしないもん、という自己イメージだったのであるが、

感情というのはまだらなのだ!

相手によって/状況によって、スイッチが完全にオフになったりセンサーが働かなくなったりするものだって、知らなかったよ……。何が把握できてるもん、だ。

太陽に怒ったってしょうがなくね?文句は言っても、それより現実的な対処でしょ、みたいな感覚ってあると思うのだが(太陽はただの一例)それが特定の状況や態度や相手で発動する感じ。太陽でもなんでもないものに対しても。

それを自覚してから、わーーあれもこれもそれも、と、それまで平穏に持っていたエピソード記憶の中にどんどん「これ本当はすごーーく嫌だった(なんでそんな扱いをされないといけないんだと思った)」というのが見えるようになってしまって、ヒィィィー!!!となっている。自覚し始めた初期はとくに、それをした相手にいまさら文句も言えないし、これの感情の行き場はどこに!対処できない!!という感じでワタワタしていた。

まあいまも全然対処できてないし手放すとか見当もつかないんだけど、これが怒りってことか……と観察している。不思議な感じ。初めて出会うような、そうでもないような。

そして私は考えを改めた。

怒りに幼稚も何もないんじゃんね

普通ーーーー!!!どっかで読んだ言葉すぎる。

幼稚なのは怒りを撒き散らす態度であって、怒りじゃないんだな(普通すぎて書いててツラい)といまさら体感しております。

怒りって、感情の中で唯一、幼稚なものだと思っていた。そう考えるに至った経緯にいまは興味津々。いまはむしろ、めちゃくちゃ重要な感情で、でも(現代)社会や集団の中に身を置くには慎重に扱わないといけないものなんじゃ、と思っているんだけど(こんなに劇的に変わるもんかね)、抑圧と無視の対象になってること多そう。(自分の身近にいた人の顔がいろいろ浮かんでいる)

感情の成長過程があるとしたら、初級以前の入門編に戻された気分。こんなこともわかってないのにふんぞり返っていた私、幼稚と呼ぶとすれば、その態度だ。