先日、遅い時間に目覚めたとき、「(本来)遊びたいときに遊んでいいのだ」という概念が、フワッと全身を通り抜けていった。短い言葉だといろいろ誤解を生みそうだけど、「遊びたいかどうかも、遊ぶかどうかも、私自身が決めることだし、決めていい」と思えたというかな。これを人は自己裁量権と呼ぶのかしら(多分違う)
子ども時代に大人の真似事ばかりして時間を過ごすと、本来子どもとして通過するべきだったいろんなことが「貸し」(何に対して貸したのかはわからないけど)みたいな感覚で残り、それを取り戻して気が済まない限り、そのことに縛られて/振り回されて延々ぐるぐるしてしまうのかもしれない。
自分の足で生きていこうとするとき、「やりたい」「やってみたい」と思える力が唯一にして最重要なエンジンでありガソリンだというのが — つまり、生きる力とは「やりたい」「やってみたい」と思う力だというのが — 私の身体感覚なんだけど、大人の真似事で自分を塗りつぶしてしまうと、その力が萎えてしまったり、塗り込めた奥深くに行ってしまってなかなか見つけられなくなったりするんだよな。
遊びたいと思う気持ちと、具体的に遊びたい何かが自分の中に芽生えるかどうかが、「やりたい」「やってみたい」と思う力を持てるかどうか、の、一つの指標だと感じるわけです。しかもそれを押さえつける習慣が身に染みついてしまった者にとっては、わりと難度の高い指標。遊びは本来「べきねば」と無縁なもののはずだから。
幼いときに身につけた技能が長じて身を助ける(あるいは早い段階で体を慣らさないとひとかどにならない)という現実があるのは否定しないけど、その身につけた技能が、数十年先に果たして身を助ける力を持つかどうかは誰にも保証ができない。いくら身を助ける技能でも、本人がやりたくなかったら、それは心身を病む毒にさえなるかもしれない。でも社会がどう変化しても、本人が「やりたい」と思えさえすれば、打開できる状況というのは少なくないと思う。AI が支配する世界になったらそれもわからなくなるかもしれないけどね。
道元禅師のいう「切に思ふれば必ず遂ぐるなり」(いろいろアレンジがされてるみたい。ちゃんと原典を当たらなければ)って、そういうことなんじゃないのかなあ。その手の名言を振りかざすわりに、行動が発言と逆を行ってますけど、とツッコみたい人々の面影を思い出しながら、私はまた一つ貸しを取り返した、と微笑んで、飲みたいお茶を淹れて飲むのだ。