Slow to update my web

何が気になっていますか ? それはどうしてですか ?

智文堂のサイトやSNSの更新が滞っていること。なぜ気になるかって、それがもはや仕事だからである。人様と約束した締切のない仕事の難しさ。まあ、あったらあったで、締切だらけだと間違いなく行き詰まる(息も詰まる)と思うけど。

この機会を借りて整理してみよう。

滞ったきっかけや要因はいろいろある。仕事でいくつかちょっとしたつまづきを感じたこと。肩と手首と腰の痛みが深刻になってきたこと。かなじい(個人アカウント)と智文堂(屋号アカウント)を分けたはいいが、どう使い分けていいか迷子になったこと(同じ投稿をリポストばかりするのは許せないという頑迷なプライドのせい)。自分の精神的土台が(薄々気がついてはいたけど)実はグズグズで、仕事どころかまともな生活を送るのも危うくなってきたこと。

それに COVID-19 が重なった。身体的・金銭的には影響や損害をほとんど受けない立場にいた私でも、この時代とこの社会の空気から自由でいることはできず。

ありがたいことに締切をいただいた仕事はその期間頑張ってきたが、いつもギリギリで、滑り込みセーフとアウトの境目にダイブするようなやり方が続いた。それではダメだと思いながら、どうしていいかわからず落ち込む日々。

いま振り返ると、よく踏ん張ったなオレ!お疲れ!!とちょっと思う。

身体の痛みは本当に喫緊の問題で、文字どおり必死で試行錯誤し、嬉しいことに、ようやく光明が見えてきつつある。何度も書いているが、身体は本当に親切で、努力すれば絶対に応えてくれるのだ。半年前と比べれば格段に痛みが軽くなった。この希望よ!!どこを動かせば痛みが和らぐか、知恵も増えてきた。元気は何より身体から。

その身体のことを考えられるようになったのは、一番深い底に空いていた虚無と罪悪感の穴(土台のグズグズの根源)を埋める努力が、幸運にも少しずつ実ってきたからである。

まず、穴の存在を認めるのにめちゃくちゃ時間がかかった。穴があるって、自分にはまだ欠けた部分がある、ということで、欠けているということは出来損ないだと(自分は何の価値もないジャンクなんだ……と)思っている間は、意地でもそれを認められない。

でも認めないと埋まらないんだよね。けったいなパラドックス。

穴の存在を認めたあと、それを埋める過程で、ずっとしがみついてきた、それがなければ耐えられないと思っていた執着を手放した。それは自分の命綱も同然の縁を自ら切ることだったから、手放したあと起こる自分の反応を引き受ける勇気と、何が起こっても大丈夫と思える自信と、それが命綱って、実は思い込みでは?という疑念を投げかける、高く広い視野が必要だった。ものすごく時間と労力を要した。その間も虚無と罪悪感は力を奪うのである。RPG の英雄も真っ青のダンジョン。いろんなものを恨んで嘆いた。なんで(この私ともあろう人が)こんな目に遭わなきゃいけないの??しかし冒険は続く。

勇気は体力が、自信は周囲の信用できる人々が、視野は書籍が与えてくれた。また、家や作業場の環境を、少しずつ心地よく整える努力が全てを支えた。

〜 どうでもいいが、ここまでをスマホで書いて、長くなりそうだからとパソコンに移ったら、実感よりたいそう長い文章が入っていて驚愕。その見当違いがショック 〜

家を整えること、心地よさを求めていいのだということ、自分にとって心地よいものが何か確認すること、その全てが凝り固まった力を抜き、「自分にもできる」という喜びにつながった。地味で些細?それが肝なのである。些細なチャレンジなら、やり直しも、回復も簡単である。気軽にやってみる → イマイチ気に入らない →(些細だから)気軽にやり直す → ちょっと気に入って満足 → また気軽にやってみる、の積み重ねで、ちょこっと逞しくなっていた。

命綱と思っていたものは、かつては確かに自分をこの世につなぎとめる大事なものだったけど、それは古びて腐り、いつしかカビと毒の温床になっていた。ダメになったのは関係性で、相手でも、自分でもない。その命綱は、世間や常識では尊く美しいものとされていて、それもまた対処を困難にしたのだけど、それが自分を蝕み、イかれた自分がさらに強い毒を撒き散らすことで相手を苦しめると何度も何度も失敗したから、私はそれを捨てる決断をした。

自分から毒が抜けると、あら不思議、その毒によって耐性がついていた(命綱とは関係のない)いくつかの関係が芋づる式に消えていった。私には切るつもりも何もなかったのに、向こうから離れていくということも起きた。そんな展開があり得るとは予想だにしていなかったけど、起こってみれば必然だったかな、という気もしている。

私が変わることで、それまでの関係性が変わりかけて、でもお互いに踏みとどまろうと努力した相手もいる。これまで平気だったものがダメになったり、ものすごく落ち込んでいたことから案外すぐ立ち直れるようになったりしている。

これまで、たくさん考えてたくさん悩んでたくさん文章を読んで、「わかった!変われる!」と何度鼻息を荒くしただろうか。残念なことに、それは私の中だけで起こった刺激で、ただ視野が広がったに過ぎなかった。もちろんそれは長い長い変化の道程に必要な力ではあったけど、「もうこれで大丈夫」「この暗く重い空気の外に出られる」と思った自分に「甘いな……😏」と言いたい。

本当の変化は目に見えないほどゆっくりで、それこそ植物が葉を茂らせ、花を開き、実を結ぶくらい静かにわずかずつ進み、でもある日、確実に起こっていたことがわかる。何も見えないからといって水やりを怠ったり、虫がついても放置したり、熱気や冷気に晒したままでは枯れてしまう。信じるのは難しい。でも放棄したら何も起こらない。粘るしかない。

そうこうしていると、思いもよらないきっかけが訪れて外の世界が変わり、意識の外にあった箇所が変わったりする。そのことで初めて「本当に変わった」と驚く。自分の小ささを覗き見て、そのことに希望を感じる。伸びしろがすごい!!(前向き)

過去の自分がこれを読んで、白々しく思うか、羨んで歯ぎしりするか、自分には無理だと絶望するか、今はこんなキラキラしたテンションの文章はきついと一層落ち込むか、どれもありそうだ。だが、変わりたいと思い続ける限り大丈夫だと、過去の自分に伝えたい。どこを変えるか、どんなふうに変えるか、いつ変えるか、それは一切関与できない。自分の意志が及ぶのは、時間の使い方、空間の使い方、毎日の行動、くらいのもんである。でもそれを続けるしかないのである。それで大丈夫。

ええと……なんの話だったっけ?そうそう、智文堂のネットツールを使えていないという話だった。しばらくの間は更新できない自分に焦りジタバタもがいていたが、仕事であると同時に、私自身とあまりに深く通じ合っているこれらの手段を、無理に操ろうとしても不可能だと、次第に考えを改めた。私の準備が整わない限り、コンスタントに、ハリのある投稿を続けることなどできない。何より、「やりたい、なぜなら楽しいから」がない投稿を、私がフォロワーなら見ていたいと思わない。

「やりたい」と思える自分が戻ってくるか、ずっと恐ろしかった。身体の痛みも、最奥の最も深く暗い場所に空いた穴も、全身に浸透する毒も、それらが織りなすあちこちの不調も、「これとともに生き、朽ちるのが私の人生か……」と怯えていた。まあ、ここに挙げた全て、ゼロにはならない。それを知らない自分を生きることはできないし、一度あれだけ深く体験したことだから、あっさり引き戻される可能性もある。ともに生きるのは確かに宿命であろう。

だが、先日の投稿で書いたように、この先、いいこともありそうだと思える自分がいる。来し方を振り返るに、信じられないほどの僥倖である。考えようによっては、SNS が使えないのを延々気にしていること自体、まだやる気があるとも取れる(一歩間違うと執着に転じるのが厄介だが)。これだけ元気になったのだ。望ましい展開があるかもしれないぞ?