Between the troubled waves

デザインというものをあらためて真面目に考えている。手を動かしては考え、時間を置いて眺め、卑屈と尊大の間を行ったり来たり。

リアーナやデュア・リパが、自分の考えや信条に基づいた作品や態度を公に向かって表現しようとするとき、「外に出すのは怖かった(けど勇気を出した)」みたいなことを答えているインタビュー記事を読んだのである。常に堂々と、自分の選択に納得して楽しんでいる(もちろんそれが基本姿勢だと思う)ように見える彼女たちでさえ勇気が必要なんだ!と想像したら(いや、プレッシャーの格が違いますけどね、それを目にする人の数も動く金額も)僭越ながらとてもホッとしたのであった。自分の選択を世に問うのは怖くて当然なんだねえ。

「いいデザイン」なんて定義するのも途方に暮れるし、人の数だけ解があるようにさえ思えるから、その中でもなんとかお墨付きや自信が欲しいと思ってしまうんだけど、そんなこと考えてる時点でまだまだ入魂できてないんである多分。ただ入魂することでさえこんなに難しいとは。

話は変わるようだけど、公認心理師・臨床心理士の信田さよ子氏が「中立な、客観的な立場から見ようとすると、支援は加害者側に寄っていってしまう」という旨のことを再三おっしゃっている(乱暴な要約です。文脈はインタビュー記事や著書を読んでネ)。公正に、客観的に何か(それはデザインであったり人の価値観や関係性であったり)を評価しようとする姿勢も、そういう暴力性を孕む可能性があるなあと思う。だから自分のデザインであっても(自分のデザインだからこそ、と言えるかも)あんまり客観的に良し悪しを査定しよう、と固執しない方がいいのかもしれない。

自分でやりがちだし、客観的に○がついたらこれで安心!と思ってしまう(そう思いたいから何度も客観的な評価を欲するんだろうね)けど、そんなのは幻想なのである。ものすごく強力で、何度でも惑わされてしまう幻想。幻想に屈する弱さもまた人間。(どっちやねん)

信田氏は同時に、距離を取りたいなら客観性はとても有効、というケーススタディも提示している。視野も広くなるし、閉鎖性から解放される効果は必要な場面も多いと思う。だけど万能じゃないってことだよね(フツーの結論)

さて、息抜きしたから、仕事に戻ろうかな。