しばらく前に「人に呪いの言葉をかけないように気をつけよう」という趣旨の文章を目にして、正しい心がけだとは思うけど、そう単純な話でもないのではないか、とかいうことを考えた。
ここでいう言葉の呪いとは、不用意に相手の意思や行動を縛る力を持っているものの総称で、「まだ若いんだから」「女だてらに」「私なんか」「向いてない」「するべき」等々、字面だけだと枚挙に暇がない。呪いにかかると、自分の望みや好きなことを見失って迷走が始まる。さらに内在化すると、事あるごとに自分で自分に呪いをかけるようになって、長引く。
もちろん、傷つける目的で悪意の言葉を投げるという行為からはきちんと距離を置きたい。でも、その言葉が呪いになるかどうかは、最終的に受け取った本人との、ある種化学反応みたいな要素もあると思うのだ。
きょうだい一同が親から何か言われたとして、その受け取り方は全く違うことがあるし、それこそイヤミが通じない場合も、善意が呪縛になる場合もある。呪いの言葉にならないように……と考えすぎると、妙な力がこもってどんどん的外れになったりするし(いわゆる裏目)、それが怖さに何も言えなくなるかもしれない。自分がそうありたいと望むほど、あるいはそうあって然るべきと信じるほど、放った言葉の効力を、人は制御できないもんなんじゃなかろうか。
だからといって野放図に感じたことをそのまま口に出すのも極端すぎる。自分でどうにかできることは3つくらいあるんじゃないかと思う。
ひとつは、自分が差し出すどんな言葉も呪いになりうると自覚しておくこと。呪いかどうかを決めるのは相手だとわきまえておくこと、と言い換えてもいい。もちろんイチャモンつけられたり曲解されたり、関係の理不尽さを我慢しろということではない。こっちが善意のつもりでも、相手にはしんどくのしかかる可能性をちゃんと考えておくということだ。全部を確認したり念押ししたりするのは不可能だから、相手が何かサインを出したら、それをどう受け止めるか、次からどうするか、つど考える。先手は打てない。毎回誠意を尽くすのみ。
ふたつは、無自覚な呪いを垂れ流さないように、自分の面倒を見ること。人を妬んでいたり、恨んでいたり、自分がたまらなく寂しかったり、精神状態があまり健全じゃないと、必死で紡ぎ出した言葉は毒を持ちやすい。見返りを求めたり、期待しすぎたり。上に書いたように、言葉の呪いは相手に強いる力を持っているから、相手に望むことが大きいと呪いに転化する確率が上がるのは道理である。そして、相手に望んでしまっている状態に、自分で気がつくのは案外難しいのだ。慣れも必要だし、日頃から意識する訓練をして悪いことはないと思う。簡単に書いたが、めちゃくちゃ心身のエネルギーを使うのよ。
みっつは、かかった呪いを自分で解く、あるいはせめて毒を弱める薬を自分の中に蓄えること。「呪い」は、のろいとも読むし、まじないとも読む。お決まりの呪いの言葉が自分を縛ろうとしたとき、それに抗うおまじないを、できれば複数持っておくと頼もしい。毎回諦めずに薄める努力を重ねた結果、呪いから解放されることだってある。何がおまじないになるかは人それぞれだけど、ネットや何かで拾ってくるより、大変でも自分に尋ねて導いたほうが、効きが深いし、長持ちすると思う。自分の好きなことの中に大きなヒントがあるんじゃなかろうか。
……というようなことを考えて、でも実践できないと意味がないから、もしこの先自分がいろいろ見失ったとき、この日記をふらふら読み返してハッと思い出すことができるように、いまの考えを残しておく次第。
後日、ちょっと追記。