ある日の会話
「その返事はちょっと微妙」
「保身が過ぎた?」
「本心じゃなかった」
振る舞い
コミュニケーションの文脈で、本心や自分の解釈を曲げる必要はなく、ただ演技すればいいという意見を読んで、演技できてればいいけど、それが擬態になるとちょっとしんどいなあと思うなど。
演技には主体性というか、選択権が自分にある感じ。やるのもやらないのも自分で決めている。擬態には着せられているイメージがある。昆虫の擬態は、自分で作り上げてるんじゃなく、生まれつきの定めである。私の考える、対人の態度における擬態も、最初は演技だったかもしれないけど、数を重ねるうちに特定の状況下では勝手にそう振る舞ってしまうようになる、それ以外の振る舞い方がわからない、という強迫感があるなあ🤔
しかも擬態は外的環境で自動的に規定されてしまう感じもある。そこに工夫や創造の余地はない。止むを得ず身につけたけど、自分を守ると同時に縛る面も強い。演技みたいな着脱の自在性がないから、成長したり環境が変わることで身体に染みついた擬態のフォーマットが通じなくなると苦しくなる。染みついてるだけに、抜くの本当に大変なんだよね。