Sense behind the language

土佐弁には案外に諦観の色合いがあるかもなあ、と思う。「ちゅうちゅうガアガアきいきいニャアニャア」とは頻出の語尾を取り出して土佐弁のがさつさを(自嘲的に)あげつらう言葉で、確かに雅な方言とは言い難いけれども、荒っぽく聞こえても攻撃的ではないかもなあ、とか今になって感じることがある

「げっつくそー」を切り捨てない慈愛(そんないいもんでもなかろうが)というか、ダメでもともとの精神というか。それを思うのは、事あるごとに周りの県人が「〜するが(せんが)まし」と言うことに気づいたためかもしれない(私も土佐弁モードのときはふと使ってしまう)

別にそれが明確な望みではないけれども、現実に対処する態度として、多少は「まし」である、というニュアンスが「〜する(せん)がまし」という言い回しにはある。何もかもは思い通りにいかないが、それでも現実を引き受けてどうにかやっていこうとする姿勢を感じて、冷たくない言葉だなと思う

一方で土佐弁には「だきな」「ごくどう」「ざっとしちゅう」「なよい」「たっすい」など、雑で横着で腑抜けた様子を表す言葉も多い。かと思えば「こじゃんと」「げに」「まっこと」「しょう」「たまるか」「おおの」他、やたら強調語も充実している。何というか刹那的な価値観と思わざるを得ん

刹那的とはつまり、普段はたいがい無気力で諦めが早いが、これぞと思ったところはやたら興奮して言葉を募らせ口角泡を飛ばす、でも熱が引くとまた無気力に戻る性向……と書いていたら県民性云々より私の言動ではないか、と自分が冷水を浴びた。わやややや