My own personal dictionary 3

授業やしつけではそう習わないけど(多分)、上澄みの感覚はよく似ている感情や態度というのがあると思う。似ているAとBのうち、Aはわりと望ましいことで、Bは取扱注意なものだったりすると、Aができてるつもりで胡座をかいていた自分はすっかりBに染まってるなんてことが起こり、Bは往々にして周囲の人をちょっと困らせたり居心地悪くしたりするから、それが自分に返ってきて「ちゃんとやってるつもりなのに空回り」になって、「なんで??」と天を仰いだりするのだ。

希望と期待

先の見えない道を進むときすがりたくなるもの。筋トレとか。続けてれば身体に良くないわけがない、とシンプルに信じられれば希望になるけど、続けてれば体重が減るはず!とか体型が変わるはず!と期待してしまうと、その通りにならなかったときに反動が大きい。だけど期待は得てして報酬系と結びつきやすいから、そっちに流れないようにするのは至難の業なのよね。流れてしまったあとにそこから抜ける方が何十倍もしんどいんだけど、止まるのはマジ難関。

謙遜と卑屈

自分では謙遜してるつもりだけど、「本当は認めてほしい」「本当は褒められたい」という願望が奥底に蠢いていると、他人にはどうしても透けて見えてしまう(臭ってしまうと言った方が近いかもしれない)。それがあることがバレた途端に、相手にとっては卑屈に変わる。認められたい願望を必死で押さえ込めば抑え込むほど、その必死さは相手に伝わり、相手に腫れ物認定される。この奥底の願望が自分にとって腫れ物だから、あながち間違ってないんだけど。この願望と折り合いをつけるのがこれまた難しいんだよな。


頭でわかったつもりになっても、繰り返し繰り返し、Bに流れてしまう。ハッと自覚して抗う、その繰り返しでしか、A に迫ることはできないのかもしれない。